「高橋まつりさん過労自殺事件」と26年前の「電通事件」、共通点と相違点

 

 電通の新入社員であった高橋まつりさんの過労自殺事件は昨年末、労働基準法違反で会社と当時の上司が書類送検され、石井直社長が辞任を表明する事態になりました。

 組織運営に不備の多い新興企業ではなく、歴史ある日本最大の広告代理店で社員の待遇も最高水準の、誰もが一流企業と認める電通で起こった過労自殺事件は世の中に大きな衝撃を与えるとともに、一連の報道によってよく知られるようになってきたのが電通では過去にも過労自殺事件が発生し、最高裁で電通に多額の損害賠償が命じられた事実です。

  26年前の1991年8月に入社2年目の若手社員が自殺し、遺族が電通を相手取って損害賠償請求を起こし勝訴したこの事件は「電通事件」として非常に重要な判例になっています。どのような経緯があって過労自殺が起きたのかについて第一審の判決文に基づいて整理し、高橋まつりさんの事件との共通点と相違点について考えてみます。

電通事件の概要

  電通事件は、新卒で電通に入社した男性社員が約1年5か月後の1991年8月27日、24歳で自殺した事件である。両親が電通に対し損害賠償請求を起こし、第一審で長時間労働と自殺の因果関係、電通の安全配慮義務違反が認められ1億2600万円という高額の損害賠償が命じられた。

 その後、東京高裁の第二審では一審判決の内容を概ね肯定したが本人の性格や両親の対応を理由に賠償金の3割を減額。そして2000年3月に最高裁が第二審の判断を破棄し、差戻しを命じた。最終的には東京高裁の差戻審で電通が遺族に約1億6800万円を支払うことで和解が成立した。

 それまで自殺は労働災害の対象外とされていたが、この判決ではうつ病という精神疾患で労働者が正常な判断能力を失ったり減退したりした場合、自殺を故意によるものではない労働災害と認定し、被災者遺族の救済を図った。しかも男性社員は精神科の通院歴はなく、うつ病の認定は裁判所が事後に推定したものであった。これらの点に電通事件の大きな意義がある。

 この裁判はその後の過労うつ病・過労自殺裁判のリーディング・ケースとなり、過労うつ病・過労自殺裁判が増加していくきっかけになった。

 

男性社員はどんな人物だったか

 被災者である1966年生まれのAさんは高校時代、テニス部の部長を務め、テレビドラマにも準主役で出演。明治学院大学法学部に入学すると夜間はアントレプレナーカレッジに通い、ACE(Association of Collegiate Entrepreneurs)がサンフランシスコで開催した国際会議に神奈川地区の学生代表として出席した経歴を持つ。

 性格は明朗快活で素直で優しく、責任感があり礼儀正しい性格であった。また粘り強く完璧主義で、手抜きをせずに真面目にやる人物であったとされる。最近の言葉を使えば「意識高い系」といえよう。

 1990年に大学を卒業し、電通に入社。同期入社は179人で、新入社員集合研修を経て6月にラジオ局ラジオ推進部に配属された。

 

仕事の内容と職場環境

 ラジオ推進部の業務はスポンサーに対するラジオ番組を放送する時間枠のセールスやイベントなどの企画、実施であった。ラジオ推進部には2つの班があり、Aさんは社員Sがリーダーの班に所属していた。

 Aさんの職場における通常のタイムテーブルは、始業時刻の9時30分ころに放送局や営業局、スポンサーなどから電話のラッシュを受けた後、放送局やスポンサーに出向いたり営業局員と打合せをしたりして日中を過ごし、夕方に再び電話のラッシュを受けた。それが終わる午後7時頃に夕食を取り、その後ようやく落ち着いて企画立案や資料づくりができるようになる状況だった。

 Aさんは、入社1年目はリーダーのSと概ね一緒に行動したが、91年に入ると7割程度は単独で仕事をするようになった。90年7月から91年8月までの間にAさんは少なくとも40社をスポンサーとして担当し、常時数社のスポンサーを相手に会社によって異なる業務を同時並行的に行っていた。

 Aさんは酒を飲まないほうだったが、社内外の酒席が設けられることも多かった。当時はそんな言葉はなかったが、そこにはパワハラの存在がうかがえた。

 一月に一度は班の飲み会があり、酒を無理強いされて醜態を演じたこともあった。また、酒の席で、訴外Sから靴の中にビールを注がれて飲むように求められ、これに応じて飲んだことや、同人から靴の踵部分で叩かれたことがあった。平成二年一〇月ころの時点では、ラジオ局員の中には、他の部署に移りたいと希望する者が多かった。

 

 

極めて過酷な業務

 新入社員であるAさんはすぐ職場に馴染み、意欲的に仕事をし、周囲からも好感を持たれていた。

 (Aさんは)自分の業務に対して、非常に意欲的であり、積極的に仕事をし、早い時期から職場の雰囲気に慣れていった。同人は、上司や担当営業局員、スポンサーからも可愛がられていた。

 一方、入社初年度の秋に会社へ提出したAさんの申告書には、業務上の不満として担当スポンサーが多く慢性的に深夜残業があること、参考資料が少なくデータに基づいたプロモートができないことが記載されていた。

 Aさんは入社したての90年6月からしばらくは終電車やタクシーで同日中に帰宅していたが、8月頃から翌日の午前1時~2時ころに帰宅する日が多くなった。11月末頃になると帰宅しない日があるようになり、翌91年に入ると帰宅時間は次第に、さらに遅くなっていった。

 両親は90年11月頃から過労で体を壊すのではないかと心配していたが、できるだけ本人の自主性に委ね、相談があれば応じようと考えていた。だが、Aさんは仕事の辛さを両親に訴えることはなかった。また、90年11月以降のある日曜日、父が休暇を取るように勧めると、Aさんはこう答えた。

 自分が休んでしまうと代わりの者がいない、かえって後で自分が苦しむことになる、休暇を取りたい旨上司に言ったことがあるが、上司からは仕事は大丈夫なのかと言われており、取りにくい

 91年7、8月頃になると帰宅しない日が多くなり、帰宅時間も午前6時30分や7時頃が多くなった。このような早朝に帰宅した日も、Aさんは始業時間に間に合うよう午前8時には家を出るようにしていた。

 

自殺直前の様子

 91年8月24日から26日まで、Aさんは長野県で開催されたラジオ局主催、スポンサー企業後援の番組リスナー招待イベントのために自分の車で出張した。イベントではおみやげセットやコンサート入場整理係等のほかジュースを冷やしたり自分の車で買い出しをしたりなど、招待客を楽しませるための雑用係を担当した。

 上司Sは休暇も兼ねて、イベント開催地近くに妻が持つ別荘に前日から宿泊していた。非常に元気のない様子だったAさんを見かね、仕事が終わった後に自分の別荘へ来るよう誘った。この日の昼過ぎの話では、Aさんは午後9時頃には別荘に行けると話していたが、実際に到着したのは夜中の12時頃であった。

 途中まで自分の車を運転してきたAさんを、リーダーのSは車で迎えにいった。ところが車2台で別荘に向かう途中、Aさんは蛇行運転をしたり、パッシングをしたり、離れたりくっついたりと明らかにおかしな様子を見せた。別荘に着いた後、こんなやり取りがあった。

 Sの妻が一郎の顔色が悪いため、「大丈夫なの。」と尋ねたところ、「僕、霊にとりつかれちゃったみたいなんですよね。」と答えた。訴外Sが「馬鹿なことをいってんじゃないよ、仕事がつらいのか。」と言ったところ、「いや、それも分からない」とか「もう人間として駄目かもしれないんです。」「自分で今、何をしているのかよくわからない。」「自分で仕事をどうやって組み立ててやっていいかわからない。」等と答えた。

 そしてイベントが終わり27日の午前6時頃、Aさんは車で帰宅。午前9時頃、同僚に電話をして「体調が悪いので会社を休む」と告げた1時間後、自宅で自殺しているのが発見された。

 

隠されていた残業時間

 電通事件裁判で主に争われたのは、Aさんの労働時間が社会通念上許容される範囲を超えた過剰なものであったか、過剰だったとして長時間労働と自殺との間に相当因果関係が認められるか、電通に安全配慮義務違反などの過失が認められるかどうかであった。

 電通と遺族で、互いに主張する労働時間には大きな食い違いがあった。電通は「時間外勤務は突出して多いものではない」とし、遺族は「平成三年一月から八月までの一ヵ月当たりの平均残業時間は一四七時間に及」び、実際にはそれをさらに大きく上回るとした。

 この違いは、社員が自分で申告する「勤務状況報告書」の記載に基づくか、監理員が午後6時以降翌朝まで巡回して在館者を記録する「管理員巡察実施報告書」と、建物が閉鎖される午前二時以降の退館者が退館時にサインする「深夜退館記録簿」に基づいて労働時間を算出するかによって生まれていた。

 電通は「在館時間がそのまま勤務時間であるということはできない」と主張したが、同僚はAさんは基本的に在館中は仕事をしていたと証言した。また、電通の労働組合は次のような調査結果を出していた。

 平成三年一月から一二月を対象とした、被告の労働組合の調査によれば、午後一〇時以降の勤務状況報告表への記載について、真実と異なる申告をした者の割合が、男子につき四二.九パーセント、女子につき五八.七パーセントに及んでいる

 電通では会社と労組の幹部が出席して毎月一回、社員の勤務状況などについて話し合う三六協議会で、以前から三六協定違反の長時間労働が懸案事項となっていた。つまり、当時の電通ではAさんだけでなく多くの社員が深夜残業を過少申告していたわけだ。

 なぜ、電通では残業時間の過少申告が横行していたのだろうか。

 電通では労働時間が三六協定で定められた上限を超過した場合、その所属の部長が顛末書を作成し、人事局長または総務局長へ提出することになっており、残業時間が月間九〇時間を超えた社員は、上司から理由を聞かれることになっていた。

 ところがAさんは両親に対し勤務状況報告表に「残業時間は全部書いてはいけないと言われている」と話していた。Aさんの話が本当なら、上司の強制によって過少申告が行われていたわけだ。

 一方、Aさんと同期入社でラジオ局に配属された社員Tは「勤務状況報告表に記載する残業時間を抑えるようにとの指導は受けたことがなかった」としたが、次の証言をしている。

 時間外労働時間が九〇時間を超えると、上司からどういう作業をしているのか質問されるため、上司に説明しきれない自信のない作業については、これを除外するほか、食事や仮眠、雑談等に費やした時間を除外したうえ、勤務状況報告表に労働時間を記入していた。

 上司からのプレッシャーや手続きの煩わしさから、自主的に残業時間を正確に申告していなかったのである。

 これは休日出勤についても同様で、社員Tは休日出勤も多かったが、休日出勤をする場合は本来、事前に予定業務を記載して申請し、事後に業務時間を記載した書類を提出し部長の印をもらわなければならないなど手続きが面倒なため、休日出勤をしても申請しないことが多かった。

 強制性と自主性の両面から、電通では労働時間が正確に申告されず、労働時間規制はまったく機能しないザル法になっていた。一審判決では遺族側の主張が認められ、Aさんの労働時間について「社会通念上許容される範囲をはるかに超え、いわば常軌を逸した長時間労働をしていたものというべきである」とされた。

 

 

機能しない会社の健康対策

 ただ正確な労働時間は申告されていなかったが、Aさんの直属の部長であるU部長は91年3月頃にはAさんの長時間労働を認識し、リーダーSに告知したが、それを軽減させるための措置は何も取らなかった。リーダーSも「なるべく早く仕事を切り上げるように」と注意したものの、単なる指導にとどまり具体的な軽減策は何も行わなかった。

 加えて自殺の1か月前である91年7月頃、SはAさんの顔色が悪く健康状態に問題があることに気付いていたが、従来通りの業務を続けさせ、健康を配慮して業務を軽減させる措置は何も取らなかった。

 このため、判決ではU部長とSリーダーには安全配慮義務の不履行があり、電通には損害賠償義務があるとされた。

 一方、電通は裁判において安全配慮義務を尽くしていたと主張し、その根拠は次のようなものだった。少し長いが引用しておこう。

 健康管理センターを設置して社員の健康管理に十分配慮し、社員の退社が深夜に及ぶことが少なくないため、被告の経費で社員がホテルに泊まることができるようにして、社員の肉体的負担の軽減を図り、深夜まで勤務した社員には出勤猶予制度を設け、無制限のタクシー乗車券を支給し、時間外労働の特に多い社員には、ミニドックでの特別な健康診断を行うことを義務付け、社員の自己申告による勤務状況報告表により、社員の労働時間の実態の把握に努め、社員の労働時間の改善について被告の労働組合と協議し、常時労使一体となって、社員の労働時間の改善に努力していた。

 これらを眺めると、深夜残業が多いことを前提にホテルやタクシーを用意している反面、具体的な労働時間削減、すなわち業務量の削減には手を打っていなかったことがわかる。また、ミニドック等の措置は正確な労働時間を把握していないため、実質的に機能していなかった。

 

高橋まつりさん事件と電通事件の共通項

 以上のように、Aさんは過大な業務を課され「社会通念上許容される範囲を超えた」長時間労働に従事していたが過少申告していた。それはAさん個人だけではなく、他の同期社員も同様であった。

 配属されたのは異動を希望する者が多い部署で、1日のタイムスケジュールは午後8時以降にようやく集中できるようになっていたほか、業務内容にはイベントで買い出ししたりジュースを冷やしたりといった雑務も含まれていた。上司からのパワハラの存在もうかがえた。

 Aさんの性格はテニス部の部長を務めたり、学生時代に国際会議の県代表になったりと、いわゆる「頑張り屋」で努力家であったことがわかる。「粘り強く完璧主義で、手抜きをせずに真面目にやる人物」であった。

 一方、高橋まつりさんの労働時間は遺族側の積算によると1か月で130時間に達したが、会社に申告していたのは労使協定に基づいて残業ができる月70時間ギリギリに抑えられていた。

(出典:東京新聞 <過労社会 電通ショック> (2)残業70時間超えれば…作文

 仕事は本来の業務以外に忘年会の準備などの業務があり、職場ではパワハラやセクハラもあった。また、配属された部署は「若手社員のなかでも評判の『行きたくない部署』だった」。

(出典:朝日dot. 過酷電通に奪われた命、女性新入社員が過労自殺するまで

 性格は母子家庭で塾に通わず東大に合格した努力家で、就職活動のエントリーシートの自己PR欄には「逆境に対するストレスに強い」と書いていた。

(出典:ハフィントンポスト 電通過労自殺、母が命日に手記「どうして娘を助けられなかったのか…」(全文) )

 Aさんと高橋まつりさんに共通していた点をまとめてみよう。

・入社間もない若手社員
・常軌を逸した長時間労働と、それでも削減されない業務量
・残業時間の過少申告と残業時間規制の不機能
・本業以外の雑務的業務の存在
・パワハラ
・社員に評判の良くない部署への新人配属
・頑張り屋、努力家、粘り強い性格

 結局、Aさんの電通事件と高橋まつりさんの過労自殺事件は相似形で、四半世紀も前に明らかになっていた社内の労働問題を放置した結果、新たな被災者が生まれてしまったと言えよう。経営者の辞任は当然の措置である。

 また、真面目な努力家という本来企業にとって望ましいパーソナリティは、業務が過重な職場においてはそれゆえに潰されてしまうことがわかる。エイベックス・グループ・ホールディングスの松浦勝人社長が自身のブログに「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。」と書いて話題になったが、電通の2つの事例を見るとそれは非常に危うい考え方である。

(出典:ハフィントンポスト エイベックス松浦勝人社長、長時間労働是正勧告を受け持論 「法律が現状と合っていない」

 一方、電通事件と高橋まつりさんの事件で大きく異なるのは、外部からの反応の大きさである。電通事件でも批判は浴びたが、今回の報道量のほうがずっと大きい。世の中に長時間労働は害悪であるという認識が広まったためで、時代の変化が見えていない老人が「残業時間が100時間を越えたぐらいで過労死するのは情けない」と言って炎上し謝罪に追い込まれたのはその表れだろう。

 2000年に最高裁で判決の出た電通事件は、過労自殺・過労うつ病の被災者救済の道を開いたが、多くの日本企業の過重な労働環境を改善させるには至らなかった。だが、電通と上司が書類送検された高橋まつりさんの事件は今後、経営者に過重労働を放置するリスクを強く意識させていくことになると思われる。

 

(参考文献・URL)

『労働判例』1996.6.15(No.692)

外井浩志『労災裁判例に学ぶ企業の安全衛生責任』労働新聞社

こころの耳 [事例1-1] 長時間労働の結果うつ病にかかり自殺したケースの裁判事例(電通事件)

 

 

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