「ほぼ日」と仏教とイノベーション

manekineko

「ほぼ日」商品開発の起点は「動機」

東洋経済オンラインに掲載されている糸井重里氏×楠木建氏の対談で、糸井氏が「ほぼ日」の運営や展開方法について詳しく語っています。

「ほぼ日」は売れ筋を”考えない”
「ほぼ日」はブータンを目指す

「ほぼ日刊イトイ新聞」は1日150万ページビューも読まれている超人気サイトですが、アクセス欲しさに妙な煽り記事を掲載したりはしないし、あまりタイムリー性を狙ったような記事も見当たりません。そもそも他のウェブメディアとは異なり広告で儲けるビジネスでもなく、それでいて「収益力はある」とのことです(売上や利益に関する数字は出ていませんが、たとえば「ほぼ日手帳」12年版は46万冊出ているそうで)。

なぜほぼ日を始めたのか。糸井氏は「僕の『やりたい』思いというより『やりたくないことをやりたくない』思いから始まった事業」と振り返っています。具体的な収益プランがあったわけではないけれど、「人のにぎわい」ができればきっと食う道はある。そんな考え方でスタートし、やがて「ほぼ日手帳」などのヒット商品を生み出していくようになりました。

こうした経緯を持つほぼ日の記事や商品開発の特徴は、起点が「自分がしたい」という動機にあることです。記事中にこんなやり取りがあります。

僕がいつもしている「ほぼ日ハラマキ」も、僕自身の強い動機から生まれたものです。11年前に販売を始めたのですが、今では、ほぼ日の主力商品にまで成長しました。今日も付けています。ほら(と、腹巻きを見せる)。

楠木:昔からの愛用者ですか。

糸井:ある友達が「だまされたと思ってしてみて」とくれた腹巻きがきっかけでした。僕はお腹を壊しがちなところがあったんですが、付けてみたら本当に調子がいい。だけど、らくだ色の冴えない感じですから、ボロボロになっても、新しい物を買う気にならなかったんです。

楠木:やっぱり格好悪い?

糸井:はい。だったら、格好悪くない腹巻きを作ればいいと。それで「腹巻きを作ったら、どう思う?」と、ほぼ日に書いた。

それも大々的にマーケティングするのではなく、僕の普通の文章の中に書きました。笑われてもいいやと思ったんです。でも、「いいですよね。子どもの頃、してました」なんて意見が来た。いいと言う人が5人いたらやることにしていたんですが、実際そうなった。

ただし、自分の動機を起点にするといっても、自分の価値観を押しつけるのとは似て非なる姿勢のようです。「ユニクロのTシャツ担当者はいつもTシャツのことを考えているが、糸井さんはどのくらい商品のことを考えているか」という楠木氏の問いに対し、糸井氏はこう答えます。

考えていないわけじゃないけれど、考えてないに等しいかもしれない。ただ、僕はユーザーとしての練習は絶えずしています。

悪人正機説とイノベーション

東洋経済のインタビュー記事を読む限り、ほぼ日は「自分のやりたいこと」を見つめ、その中に埋め込まれている世の中の「こんなものがあったらよいな」をうまく沸き上がらせて読者、あるいは顧客の支持を得ているように見えます。自分と世の中を切り離して見ていないというか、海の外から網を投げ入れる漁師ではなく、自分たち自身が海のなかで生きているといいますか。

この辺のことを考えていて思い出したのが「MBA僧侶」松本紹圭氏による次の記事でした。

善人でさえ救われる。悪人ならなおさらだ――『歎異抄』から企業理念を考える

この記事中で松本氏は、戦略フレームワークを駆使してよその会社が置かれた状況に関しては鮮やかに分析できるのに、自社のことについては歩みが定まらず、イノベーションにたどりつけないのはなぜかという問いを発し、こう指摘しています。

ここに、「自分」と「世界」を切り離して思考してしまっていることの弊害があるように私は感じるのです。別の言い方をするのであれば、おそらく「知恵」は十分でも、「智慧」が育っていないのです。

智慧とは、ものごとのありのままを見通す力のことです。その力を養うには、何よりも自分という人間を知ることから始まります。智慧が開けてくれば、人の根本的な「苦しみ=ニーズ」に対する理解が深まります。解決すべきニーズ(痛みや悲しみ)も分かりますし、あおるべきでないニーズ(射幸心など)も見分けられるようになります。

以下は私なりの解釈ですが、時空を超えて網の目のように広がる縁やつながりの中で生かされているという、世界の中における自分の位置を認識すると同時に、真摯に自分の内なる声に耳を傾けるといった物事の見方をしていくと、イノベーションの元になる何かが自ずと見えてくる、ということではないかと思いました。つまり、出来の悪いコンサルタントのように賢しらぶって無理に世界をきれいに切り分けようとしたり、自分を他人事のように分析したりするのではなく、物事をありのまま見ていくと。

親鸞の悪人正機説は、「自分の力(自力)で善を積んで救われようとする人は、阿弥陀仏の力(他力)にすべてをお任せする心が妨げられて、かえって救いから遠ざかってしまう」というパラドックスを見事に指摘したものです。何か新しい価値を生み出そうとして生み出せない状況にいる人は少なくないと思いますが、それはもしかすると悪人正機説が指摘するのと同様のパラドックスにはまっているのかもしれません。

だとするならば、仏教思想という意外なところにイノベーションのヒントがある。つまりは舶来の賢そうな知識へ安易に飛びつき振りかざしてみるのもいいけれど、自分たちの社会に根ざした智慧に目を向けることも大事、ということかもしれません。

梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書)
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おぼうさん、はじめました。
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